膳所城]は、滋賀県大津市本丸町にあった日本の城です。琵琶湖に突き出た膳所崎と呼ばれる地に築かれた水城で、日本三大湖城の一つとして知られています。かつては「琵琶湖の浮城」とも称され、大津城、坂本城、瀬田城と並ぶ琵琶湖の景観を彩る重要な存在でした。
膳所城は大津市街の東部、琵琶湖の相模川河口付近に位置しています。湖の水面に映えるその姿は、かつて里謡に「瀬田の唐橋、唐金擬宝珠、水に浮かぶは膳所の城」と謡われ、その美しさを称賛されてきました。梯郭式の縄張りを持ち、三の丸、二の丸、北の丸、本丸が順に配置され、特に本丸には4重4階の天守がそびえ立っていました。
膳所城は慶長6年(1601年)に徳川家康の命によって築かれました。家康は、関ヶ原の戦いに勝利し天下を掌握した後、東海道を押さえる要所として膳所崎を選びました。この場所は古来より「瀬田の唐橋を征する者は天下を征する」と言われており、戦略的にも重要な位置にありました。
膳所城の大きな特徴は、琵琶湖に突き出た水城であることです。この地形は美しい景観を生み出す一方で、波の浸食に悩まされ続け、度重なる補修が必要となりました。こうした修繕の負担は膳所藩の財政を逼迫させる一因ともなっていました。
膳所城は、江戸幕府の天下普請によって築かれた最初の城であり、藤堂高虎が縄張りを計画しました。築城後、大津城主であった戸田一西が膳所城に3万石で入城し、膳所藩が成立しました。その後、膳所城は譜代大名の居城として、いくつかの大名家が移り変わりました。
戸田氏の後、膳所城には本多康俊が入城し、その後も菅沼氏、石川氏、本多氏と続きました。最終的に本多氏が13代220年にわたり膳所藩を治め、明治維新を迎えました。
寛文2年(1662年)には大地震が発生し、膳所城の建造物は大きな被害を受けました。このため、本多俊次は大規模な城の改修を行い、本丸と二の丸の間を埋め立てて本丸を拡張しました。この改修により、膳所城は再び強固な城としての役割を果たしましたが、琵琶湖の波による浸食問題は続きました。
明治3年(1870年)、膳所城は廃城となり、天守を含む城の建物は解体・移築されました。現在、城跡は「膳所城跡公園」として整備されており、石垣の一部と模擬再建された門が残っています。また、膳所神社、篠津神社、鞭崎八幡宮に膳所城の城門が移築され、それぞれが国の重要文化財に指定されています。
膳所城の跡地は現在、「膳所城跡公園」として一般公開されています。城の本丸跡は陸続きとなり、かつての姿を偲ぶ石垣がわずかに残っています。また、公園内には模擬再建された城門があり、歴史ファンや観光客に親しまれています。
膳所城の建物の一部は、各地に移築されています。膳所神社には本丸大手門、篠津神社には北大手門、鞭崎八幡宮には南大手門が残されており、いずれも国の重要文化財として保存されています。また、かつての高麗門は大阪府泉大津市の「細見記念財団」が所有しています。その他、市内の芭蕉会館には本丸隅櫓が移築されていますが、大幅な改造が施され、原形を留めていません。
平成18年(2006年)には、民家に移築されていた瀬田口総門番所が取り壊されるなど、膳所城の遺構は一部失われているものの、現在もその歴史的価値が保たれています。二の丸跡は現在、膳所浄水場として利用されています。
膳所城跡公園への車でのアクセスは、近江大橋西詰交差点から南郷方面へ1分、または唐橋西詰交差点から浜大津方面へ10分ほどです。
JR西日本の琵琶湖線「石山駅」または「大津駅」から京阪バス・近江鉄道バスに乗り、「膳所公園」バス停で下車します。バス停から公園までは徒歩2分です。
京阪石山坂本線「膳所本町駅」からは徒歩7分で膳所城跡公園に到着します。駅からの散策も楽しめる距離です。
膳所城は、琵琶湖の湖岸に築かれた美しい水城であり、その歴史は江戸時代から明治にかけての日本の変遷と密接に関わっています。現在は城跡公園としてその名残を感じることができ、移築された城門や石垣は、往時の姿を偲ばせる貴重な遺構です。膳所城を訪れる際は、その歴史的背景や美しい湖畔の風景とともに、当時の大名たちが守ってきた城の姿に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。