馬見岡綿向神社は、滋賀県蒲生郡日野町の東にそびえる綿向山の麓にある神社で、山頂に祀られている大嵩神社の里宮です。綿向山を神体山として崇め、出雲系の三柱の神を祀っています。神社は「式内社馬見岡神社」に比定されており、旧社格は県社です。毎年5月2日と3日には、例祭として日野祭が開催され、地域に根ざした文化行事としても知られています。
馬見岡綿向神社では、出雲系の以下の三柱の神々が祀られています。
神武天皇の時代に、出雲国の開拓神を迎えて祀ったのが馬見岡綿向神社の始まりです。545年(欽明天皇6年)には綿向山の山頂に祠が建てられ、そこからこの神社の歴史が始まりました。その後、796年(延暦15年)に現在の場所に移転されたと伝えられています。
1209年(承元3年)、境内の社殿が全て焼失するという火事が発生しましたが、再建されたのは181年後の1390年(明徳元年)でした。
中世後期には、日野に城下町を築いた蒲生氏によって、馬見岡綿向神社は氏神として庇護されました。蒲生上郡の総社としての崇敬を集め、蒲生氏はこの神社に対して多くの寄進を行いました。特に、1549年(天文18年)には蒲生定秀によって社殿が修復され、1571年(元亀2年)には蒲生賢秀によって再び修復が行われました。
蒲生氏郷が1584年(天正12年)に伊勢、その後会津に移る際も、馬見岡綿向神社への寄進は続けられました。会津黒川に転封した際、氏郷は神社の参道にあった「若松の森」を偲んで、新たな領地「会津黒川」を「会津若松」と改名したとされています。
しかし、1634年(寛永11年)、当時の松山藩主であった蒲生忠知が嗣子なく没したため、蒲生家は断絶し、それ以降の庇護は途絶えることとなりました。
近世になると、馬見岡綿向神社は近江日野商人(近江商人)たちの出世開運の神として広く信仰を集めました。商人たちからの寄進により、拝殿や絵馬殿、石灯籠、石橋などが境内に残されています。特に、1681年(延宝9年)に日野商人の寄進で完成した半円形の石橋は、日野祭の際に神輿が渡御する重要な構造物です。
1708年(宝永5年)には、現在の本殿が広く民衆からの募金により完成しました。また、日野の町人であった中井源左衛門家の良祐・光昌親子は特に厚く信仰し、1782年(天明2年)には神楽所を修復し、1803年(享和3年)には拝殿を完成させました。
馬見岡綿向神社で行われる日野祭には、18世紀初頭から日野町の商人たちの財力によって完成した曳山19基が使用されます。この曳山は祭りの彩りを添えるものであり、現在も16基が残っています。
馬見岡綿向神社の本殿は、1998年に滋賀県の指定文化財に認定されました。古くから地域に根ざした信仰を集めており、その建築様式は歴史的にも価値があります。
拝殿は、日野商人の寄進により完成したものであり、祭礼の際には多くの人々が訪れ、神社の中心的な場所となっています。
馬見岡綿向神社には多くの文化財が存在します。その中でも特に重要なものとして、以下の文化財が挙げられます。
日野祭は、毎年5月2日と3日に行われる馬見岡綿向神社の例祭です。この祭りは、地元の人々や遠方からの参拝者にとって重要な行事であり、曳山や神輿が町を練り歩く光景が印象的です。日野商人たちの寄進によって支えられたこの祭りは、歴史と文化を感じさせる行事として地域に根付いています。
馬見岡綿向神社へのアクセスは、公共交通機関を利用する場合、JR東海道本線(琵琶湖線)および近江鉄道八日市線(万葉あかね線)で「近江八幡駅」または「日野駅」まで向かい、そこから近江鉄道バス北畑口行きに乗り、「向町停留所」で下車、徒歩約3分です。
自動車を利用する場合は、名神高速道路「八日市IC」または新名神高速道路「甲賀土山IC」から約20分の距離です。