伊崎寺は、滋賀県近江八幡市白王町にある天台宗の寺院です。比叡山延暦寺の支院の一つとして「伊崎不動」とも称されています。また、比叡山無動寺、葛川明王院と並び、天台修験の三大聖地として知られています。伊崎寺の山号は「姨倚耶山(いきやさん)」です。
伊崎寺は、天正13年以前に成立した「伊崎寺縁起」によると、修験道の開祖とされる役小角(役行者)によって開かれたと伝わっています。彼はイノシシに導かれてこの地に至り、「猪先(いさき)」という名を付けたとされています。
貞観年間(859〜876年)には、相応(そうおう)和尚が寺院を創建し、葛川の滝で感得した不動明王を本尊としました。この時期に伊崎寺が存在していたことは、所蔵されている仏像などから確認されています。伊崎寺が天台修験の拠点となったのは、鎌倉時代以降と推定されています。
伊崎寺は、天台宗の修験道と深い関わりを持ち、特に比叡山無動寺とのつながりが強いです。戦後には、千日回峰行を満行した阿闍梨が伊崎寺の住職を務めており、修行の場としての役割を果たしています。また、近隣には西国三十三所札所である長命寺があり、こちらも天台宗の寺院として知られています。
伊崎寺の山門は、琵琶湖岸の船着場から続く階段の上部に位置しています。この地域はかつて琵琶湖と大中湖に囲まれ、船でしか参詣できなかったため、山門は船着場に向けて建てられています。山門の扁額には「姨倚耶山」の文字が刻まれています。
現在の本堂は、1813年(文化15年)に再建されたものです。歴史の中で何度も焼失と再建を繰り返してきました。本尊は木造の不動明王坐像で、1732年(享保17年)に堺の仏師4名によって作られました。2011年(平成23年)には仏師・松本明慶師によって修復され、開眼供養が行われました。
棹飛び堂は、本堂の北側、琵琶湖を見下ろす断崖絶壁に立つ巨岩の上に建てられています。伝承によると、役行者がこの巨岩を不動明王と感得し、本尊として祀るためにこの堂を建立したとされています。この場所では、後述する「伊崎の棹飛び」という行事が毎年行われています。
伊崎寺が所蔵する木造不動明王坐像は、像高85.4センチの作品で、平安時代中期に制作されたと推定されています。この像は、相応和尚が葛川明王院の滝で修行中に感得した不動明王の姿をもとに造られたとされています。牙を上方に突き出す独特の表情や、6か所で括られた弁髪の形状が特徴的で、修行を通じて得た仏像(感得像)の一種と考えられています。
この不動明王像は、2006年(平成18年)に国の重要文化財に指定され、現在は比叡山延暦寺の国宝殿に収蔵されています。また、二童子像も一具をなすものとして重要文化財に附指定されています。
伊崎寺には、他にも以下の市指定文化財があります。
伊崎寺では、毎年8月1日に「棹飛び」と呼ばれる伝統行事が行われます。棹飛びは、琵琶湖を見下ろす断崖絶壁に建つ棹飛び堂の下から、湖上に突き出した長さ13メートルの棹の先端から、7メートル下の湖面に向かって飛び込む行事です。この伝統は約1100年前から続いており、修行僧による捨身行の一環として行われてきました。
1534年(天文3年)の記録には、伊崎寺を参詣した佐々木義賢が、棹飛び衆5人に対して米5升を奉納したことが記されています。これは、少なくとも16世紀にはこの行事が行われていたことを示す証拠です。
近年では、8月の第1日曜に僧侶だけでなく、一般の参加者も募って棹飛びが行われていました。しかし、テレビニュースで紹介されたことをきっかけに、2000年頃から許可なく棹に登り飛び降りる若者が増え、2005年(平成17年)には24歳の男性が溺れて死亡する事故が発生しました。
これにより、翌年の棹飛びは中止され、2007年(平成19年)からは再び行われるようになりましたが、現在では百日回峰行を満行した行者のみが飛び込む形で、8月1日に実施されています。また、東京都など他の地方からも修行僧が参加することがあり、棹飛びは引き続き行者の修行の一環として受け継がれています。
伊崎寺は、修験道や天台宗における重要な修行の場として、また独特な伝統行事「棹飛び」の地として知られています。豊かな歴史と文化を有し、重要文化財としても数々の遺産を守り続けている伊崎寺は、琵琶湖の美しい風景とともに訪れる人々に深い感銘を与えています。近江八幡市を訪れた際には、ぜひ立ち寄ってみたい名所の一つです。