観音正寺は、滋賀県近江八幡市安土町石寺に位置する天台宗系単立の寺院です。山号は繖山(きぬがささん)で、本尊は千手観音です。西国三十三所の第32番札所としても知られ、多くの参拝者が訪れます。標高433メートルの繖山の山頂付近、標高370メートルの地点に位置し、琵琶湖の東岸を見下ろす素晴らしい景観を誇っています。
観音正寺の創建に関する伝承は、聖徳太子に由来しています。推古天皇13年(605年)に、聖徳太子がこの地を訪れ、自ら千手観音を刻んで祀ったことが始まりとされています。伝承には2つの異なる話があります。
一つの伝説では、聖徳太子が神崎郡を訪れた際、葦原の繁る水域で人魚に遭遇しました。その人魚は前世で堅田の漁師であったが、殺生の業により人魚の姿になったと訴え、千手観音像を作って弔って欲しいと懇願しました。聖徳太子はその願いを受け、当寺を建立し、自ら千手観音像を彫って本尊としたと伝えられています。
また、人魚は成仏し、太子の夢枕に現れてその死骸が浜辺に浮いていると報告したため、聖徳太子はその遺骸を回収して当寺に納めたとされています。この人魚のミイラは、1993年に火災で焼失するまで伝えられていました。
もう一つの伝説では、聖徳太子がこの地を訪れた際、天人が繖山の巨岩の上で舞っているのを見て、その岩を「天楽石」と名付けました。聖徳太子はその岩の上に妙見菩薩を刻み、さらに五つの仏像を彫ったとされています。また、天照大神と春日明神の啓示により、霊木を使って千手観音像を彫り上げ、当寺を建立したとされています。
観音正寺は平安時代にはすでに存在していたとされます。元弘3年(1333年)には、足利高氏に攻められた六波羅探題の北方、北条仲時が後伏見上皇や光厳天皇を伴ってこの寺に宿泊したとの伝承があります。寺の周囲には、六角氏の居城である観音寺城があり、六角氏の庇護を受けて繁栄しました。しかし、永禄11年(1568年)に織田信長による観音寺城の戦いの際に焼失しました。
その後、慶長2年(1597年)に観音正寺は山上に再建され、現在の庫裏が建てられました。江戸時代には西国三十三所の霊場として栄え、多くの塔頭が存在しましたが、明治時代にはほとんどが廃絶しました。
1993年に火災が発生し、本堂や秘仏の千手観音像、そして人魚のミイラが焼失しました。しかし、2004年に新しい本堂が再建され、仏師松本明慶による新たな千手観音坐像が安置されています。この新しい観音像は、インドから特別に輸入された白檀で作られており、像高3.56メートル、光背を含めた総高は6.3メートルに達する巨大な坐像です。
無傷で火災を免れた前立本尊は、現在秘仏とされ、2022年に公開されました。次回の公開は33年後とされています。
観音正寺の本堂は2004年に再建され、境内には美しい庭園が広がっています。池の横には山の斜面に沿って石が積み上げられており、訪れる人々に静かな癒しを提供しています。
境内には、縁結地蔵堂、魚濫観音堂、白蛇大明神、太子堂、護摩堂(国登録有形文化財)、地蔵堂(国登録有形文化財)など、数多くの見どころがあります。また、仁王門は存在しませんが、代わりに仁王像が露座に置かれています。
奥の院には、巨大な岩の中に石窟があり、そこに平安時代後期に彫られた磨崖仏が5体安置されています。この神秘的な空間は、訪れる人々に古の時代の静寂を感じさせます。
観音正寺へは、JR東海道本線(琵琶湖線)の能登川駅から近江鉄道バスを利用し、観音寺口停留所で下車します。そこから裏参道の登山道を経由して、徒歩約50分で寺に到着します。3つの登山ルートがあり、登山を楽しみながら寺を目指すことができます。
登山道入り口付近には駐車場があり、車でのアクセスも可能です。寺周辺には観光案内所やお土産店もありますので、観光の合間に立ち寄ることもできます。
観音正寺は、聖徳太子の伝承に彩られた歴史深い寺院であり、琵琶湖を見下ろす素晴らしい景観と共に、静かな時間を過ごせる場所です。西国三十三所巡礼の一環として、多くの参拝者が訪れる観音正寺は、歴史と自然が調和する観光スポットとしておすすめです。歴史的な背景や美しい庭園、数々の文化財を楽しみながら、心静かに祈りを捧げるひとときを過ごしてみてはいかがでしょうか。