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補陀洛山 長光寺

(ふだらくさん ちょうこうじ)

長光寺は、滋賀県近江八幡市長光寺町にある高野山真言宗の寺院です。山号は補陀洛山で、本尊は千手子安観世音菩薩を祀っています。別称として「ハナノキ寺」とも知られており、歴史的にも文化的にも重要な寺院です。

歴史

創建の伝説

長光寺の寺伝によれば、推古天皇の時代に聖徳太子が高階妃と共に「老蘇の森」(現在の近江八幡市安土町東老蘇)に仮宮を設けていた時、高階妃が産気づきました。聖徳太子は仏法に頼り、観世音菩薩に祈るよう妃に告げると、妃はひたすら仏に救いを求めました。その際、西南の空から童子が現れ、「汝の願いは観世音菩薩が救うだろう」と告げて飛び去り、間もなく無事に出産を果たしました。太子はこの出来事に感銘を受け、その童子の跡を追わせたところ、八尺の香木と八寸の霊石を見つけ、そこで法華経を唱えました。すると、千手観音像が光の中から現れたのです。

その後、聖徳太子はこの香木を用いて千手観音像を彫刻し、像内に法華経・維摩経・勝鬘経の三部の経典を納めました。そして、この像を本尊とし、推古天皇19年(611年)に武川綱に命じて長光寺を創建しました。当初の寺名は「武作寺」でしたが、後に「武佐寺」や「誕生院」、「長光寺」と呼ばれるようになりました。

中世の発展

長光寺は創建時、七堂伽藍を備え、聖徳太子建立四十九院の一つとされています。隣接する地には十二社権現が祀られていました。『源平盛衰記』には、寿永3年(1184年)に平重衡が捕らえられた際、この寺に立ち寄ったと記されています。また、鎌倉時代には「一切経」と呼ばれる5,000巻を超える仏典が所蔵され、仏教研究の重要な拠点となっていました。この時代、寺で書写された「三弥底部論 巻中」は、東アジアでも稀少な仏教書とされています。

戦国時代と再建

文明7年(1475年)には一度焼失しましたが、足利義政の支援を受けて再建されました。戦国時代には足利義晴がこの寺に8ヶ月間滞在し、その後も織田信長が訪れた記録が残っています。永禄年間の兵乱や長光寺城の戦いで再び焼失しましたが、再度復興されました。

近世以降の歴史

寛永2年(1625年)、淀藩主の松平定綱によって復興が開始され、定綱は寺に39石の御供田を寄進しました。その後も宝暦3年(1753年)には玄広木食上人により再興され、現在の姿へと続いています。

境内の見どころ

山門と本堂

長光寺の山門は寺の象徴的な存在で、参拝者を迎え入れます。本堂は千手子安観世音菩薩が祀られており、寺の中心的な建物です。

不動堂と大師堂

境内には不動堂や大師堂があり、それぞれ弘法大師像や不動明王が祀られています。これらの建物は訪れる人々に精神的な安らぎを提供します。

ハナノキ

長光寺は「ハナノキ寺」とも呼ばれ、市指定の天然記念物であるハナノキが境内に生い茂っています。このハナノキは日本最南限のもので、樹齢500年から600年と推定されています。聖徳太子が御宝前に植えた霊木の余枝から育ったと伝えられており、その紅葉や花は季節ごとに美しい景観を提供します。

十三重石塔と鐘楼

境内には十三重石塔と鐘楼があり、長光寺の歴史と文化を象徴する重要な構造物です。特に鐘楼の鐘の音は、訪れる人々に静けさと平穏をもたらします。

四国八十八箇所霊場石仏群

境内には四国八十八箇所霊場の石仏群があり、準四国八十八箇所霊場とも呼ばれています。多くの参拝者がこれらの石仏を巡り、祈りを捧げています。

文化財

長光寺には数多くの文化財があり、歴史的な価値を持つ品々が残されています。近江八幡市指定の有形文化財としては、平安時代の木造阿弥陀如来坐像や南北朝時代の木造獅子頭があります。また、市指定の天然記念物として、ハナノキが保護されています。

年中行事

長光寺では年間を通じて様々な行事が行われています。新年の正月会や節分の開運厄除星祭り、春秋の彼岸法要、千手子安観音千日会法要など、多くの参拝者が訪れます。また、毎年10月1日から10日にはハナノキのライトアップが行われ、紅葉の美しさが際立ちます。

アクセス

長光寺は滋賀県近江八幡市長光寺町694にあり、近江鉄道八日市線の武佐駅から徒歩10分の場所に位置しています。アクセスも良好で、多くの参拝者や観光客が訪れています。

Information

名称
補陀洛山 長光寺
(ふだらくさん ちょうこうじ)

彦根・近江八幡

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