観音寺城は、滋賀県近江八幡市安土町に位置していた山城であり、支城として和田山城や佐生城、箕作城、長光寺城などが存在しました。現在、この城跡は国の史跡に指定されています。
観音寺城は、近江源氏の佐々木氏、その後は近江守護の六角氏の居城として知られています。元々は小脇館や金剛寺城から移転され、六角氏の最終的な本拠地となりました。
標高432.9mの繖(きぬがさ)山の山上に築かれ、南側の斜面に城郭が展開されました。総石垣造りの城として、安土城以前の中世城郭においては非常に特異な存在でした。天文年間(1532年〜1555年)には城下町の石寺が形成され、楽市が設けられるなど、経済的にも発展していたことがわかります。
この地域は琵琶湖や大中の湖、美濃から京都へ通じる東山道、伊勢へ抜ける八風街道などの交通の要衝に位置しており、軍事的にも重要な拠点でした。
観音寺城の正確な築城年代は不明ですが、古典『太平記』には南北朝時代の建武2年(1335年)に、南朝軍に対抗するため北朝の六角氏頼が城に籠もったとの記述があります。この記録から、少なくとも1335年には城が存在していたと考えられています。
観応の擾乱(1350年〜1352年)の最中である観応2年(1351年)、足利直義の軍が南朝と連合して、観音寺城に籠もった佐々木道誉や六角氏頼らを攻撃しました。この際、城は一時的に包囲されましたが、城は戦いの拠点として重要な役割を果たしました。
室町時代の応仁の乱(1467年〜1477年)では、六角高頼が西軍に属し、東軍の京極持清軍に攻められました。この戦争中、観音寺城は何度も攻防戦の舞台となり、城の重要性が再確認されました。
応仁2年(1468年)、東軍に属した京極勝秀が観音寺城を攻撃しましたが、城主の六角高頼は京都で戦闘中であり、城を守った伊庭行隆は敗北し、城を明け渡しました。
その後、応仁2年11月には六角高頼が城に戻り、再び防備を固めました。京極軍と再び戦闘が行われ、六角氏は最終的に城を奪還することに成功しました。
戦国時代に入り、観音寺城は織田信長の勢力拡大に巻き込まれました。永禄11年(1568年)、信長が上洛を果たした際、六角氏は敵対し、観音寺城は無血開城され、六角義賢・義治父子は逃亡しました。この出来事をもって、観音寺城は事実上廃城となりました。
観音寺城の最大の特徴は、山上から山腹にかけて密集する曲輪群が、城下町石寺の屋敷群と連続している点です。碁盤目状に並んだ曲輪や、石垣を多用した城の造りが印象的で、これらは戦国時代の城郭として非常に珍しい構造でした。
特に、本丸より高い場所には郭がほとんど設けられておらず、代わりに石塁や土塁が道として配置されていました。これにより、山腹の郭が上から囲い込まれる形で防備が強化されていたと考えられています。
観音寺城は防備のための要塞というよりも、政治的な権威を示す城としての役割が大きかったと言われています。防御施設は比較的簡素で、虎口や竪堀などの強力な防御構造はほとんど見られませんでした。
六角氏は、一度城を明け渡した後、勢力を整えて再び奪取するという戦術を取っていたため、本格的な籠城戦が行われることは少なかったようです。しかし、観音寺城は地理的に重要な位置にあり、政治的な影響力を発揮する拠点としての役割は大きかったと考えられています。
2006年(平成18年)4月6日、観音寺城は「日本100名城」の一つとして選定されました。城跡は現在でも観光地として訪れることができ、当時の石垣や郭の遺構を見ることができます。
観音寺城の本丸は標高395mの位置にあり、面積は約2,000m²です。遺構としては、礎石、暗渠排水、貯水槽、幅4mの大手石階段などが残されています。また、「二階御殿」と呼ばれる建物がここに存在していたとされています。
平井丸は、標高375mの位置にあり、観音寺城の中でも防御力が高い部分とされています。ここでは、石垣を多用した防御施設があり、城全体の防衛戦略の一翼を担っていました。
観音寺城は、軍事的な防御拠点でありながら、同時に近江国の政治的中心地としての役割も果たしていました。六角氏の権力の象徴であり、繖山の地理的優位性を活かした城の配置は、当時の戦略的な要請に応じたものでした。
その後、織田信長の勢力に吸収され、廃城となった観音寺城ですが、現在でもその壮大な遺構は訪れる人々に当時の歴史を伝えています。