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佐和山城

(さわやまじょう)

佐和山城]は、中世中期から近世初期にかけて、滋賀県彦根市の佐和山に位置していた日本の城(山城)です。現在では、城跡として残っており、歴史的価値が高い場所として多くの観光客を魅了しています。この城は、軍事的・政治的な要衝として重要な役割を果たし、特に織田信長や豊臣秀吉の時代に注目されました。

織田信長と豊臣秀吉の時代

16世紀の末、佐和山城は織田信長の家臣であった丹羽長秀や、豊臣秀吉の奉行として知られる石田三成が居城としました。関ヶ原の戦い後には、一時的に井伊家が入城し、さらに重要な城として発展しました。佐和山城は近江国坂田郡、犬上郡の軍事的な要地であり、特に畿内と東国を結ぶ交通の要衝として利用されました。

佐々木・六角・浅井・織田の時代

佐和山城の歴史は鎌倉時代にさかのぼり、近江守護職であった佐々木定綱の六男、佐保時綱によって築かれたとされています。その後、六角氏がこの地域を支配しましたが、戦国時代の後半になると浅井氏が勢力を伸ばし、城の支配者も変遷しました。織田信長の時代には、丹羽長秀が入城し、北近江六郡や若狭国の支配拠点として活用されました。

豊臣政権と石田三成

豊臣秀吉の政権下で、佐和山城は石田三成の居城となりました。三成は城を大規模に改修し、五層の天守を持つ壮麗な城郭に仕立て上げました。この時期、佐和山城は非常に重要な城となり、当時の人々の間で「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と称されたほどでした。しかし、三成は奉行としての職務を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を管理していたのは三成の父、正継でした。

関ヶ原の戦いと佐和山城の落城

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで石田三成が敗北すると、徳川家康は小早川秀秋を先鋒として佐和山城を攻撃しました。この時、城には約2800人の守備兵しかおらず、多くの兵が関ヶ原の戦いに出陣していました。それにもかかわらず、城兵は奮闘しましたが、最終的には城内で裏切りが発生し、9月18日に落城しました。石田三成の父、正継やその家族も自害し、一族は滅亡しました。

井伊家と彦根城の築城

石田氏が滅亡した後、徳川四天王の一人である井伊直政が佐和山城に入城しました。しかし、井伊家は佐和山城をそのまま利用するのではなく、新たに彦根城を築くことを決定します。これは、佐和山城を利用すると領民が石田家を懐かしむことを懸念したためです。直政が築城を開始する前に亡くなり、計画はその子直継に引き継がれました。最終的に、彦根城は天下普請によって完成し、佐和山城は廃城となりました。

現在の佐和山城址

現在、佐和山城の跡地には石垣の一部、土塁、堀、曲輪(くるわ)などが残っています。また、千貫井戸跡や西ノ丸の焔硝櫓跡・塩櫓跡も見ることができます。佐和山城は廃城となりましたが、その歴史的価値は今も色褪せることなく、訪れる人々を魅了し続けています。城址からは琵琶湖や彦根市街を一望でき、自然豊かな景観が広がるため、ハイキングや歴史散策のスポットとしても人気があります。

佐和山城へのアクセス

佐和山城跡へのアクセスは、彦根駅から徒歩で約20分ほどです。比較的登りやすい山道ですが、城址までの道は一部急な箇所もあるため、しっかりとした歩きやすい靴を履くことをおすすめします。また、城址近くには駐車場もありますので、車で訪れることも可能です。彦根城とあわせて訪れる観光コースも人気があり、歴史を感じながら自然散策を楽しめます。

まとめ

佐和山城は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、重要な役割を果たした歴史的な場所です。石田三成や井伊直政など、歴史に名を残す人物たちが関わったこの城は、今では城跡として残り、観光地としても注目を集めています。豊かな自然と歴史的な背景を楽しむことができる佐和山城跡は、歴史ファンにとっても、ハイキングを楽しみたい人にとっても魅力的な場所です。ぜひ、訪れてその歴史的価値を実感してください。

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佐和山城
(さわやまじょう)

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