滋賀県蒲生郡日野町に位置する「近江日野商人ふるさと館 旧山中正吉邸」は、体験・交流・学習を目的とした施設です。この建物は、近江日野商人(近江商人)の代表的な本宅建築として知られ、2015年3月31日に日野町有形文化財に指定されました。
「旧山中正吉邸」は、日野町の有形文化財としてその歴史と文化を保存・展示している施設です。旧山中正吉家の歴史的な建物を活用し、地元の歴史や文化を学ぶ場として親しまれています。また、ここでは近江商人としての生活や商業活動を垣間見ることができる展示が行われています。
「近江日野商人」は、滋賀県日野町を拠点に全国各地で商業活動を行った商人のことを指します。彼らは、優れた商才を発揮し、全国でその名を知られるようになりました。特に、山中正吉家は酒造業や醤油醸造業を営む商家として名を馳せ、その後の商業活動においても成功を収めました。
山中正吉家は、近江日野商人の代表的な一族であり、そのルーツは鈴木正吉商店にあります。この家は、富士高砂酒造を経営しており、駿河国(現在の静岡県)で商業活動を行っていました。
初代山中正吉は1809年に生まれ、富士郡大宮町(現・静岡県富士宮市)で酒造業を営みました。彼は、鈴木藤右衛門の養子となり、鈴木正吉商店を創業しました。安政3年(1856年)には酒株や酒庫を買い取り、屋号を「中屋」に改めました。その後、日野に主屋を建設し、商業活動を拡大していきました。
初代山中正吉は、絵画にも精通しており、「英輝」「松韻」という号で多くの作品を残しました。彼の絵画は宮内庁にも買い上げられ、絵画の代金を使って地元に18本の石橋を架けたとされています。
2代目山中正吉は家業を継承し、さらに商業活動を拡大しました。彼は富士山本宮浅間神社と深い関わりを持ち、地域の信仰にも影響を与えました。3代目山中正吉は、滋賀県会議員を務めるなど、地域社会に貢献しました。彼の時代には建物が全面改装され、現在の形となりました。
5代目山中正吉の死去により、一時期、山中正吉邸は空き家となっていました。しかし、2008年に日野町の住民がこの邸宅を購入し、一般公開が始まりました。やがて日野町が土地を購入し、建物が寄付されたことにより、現在の「近江日野商人ふるさと館」として運営されています。
この館では、旧山中正吉家に関連する多くの歴史資料が保存されています。特に、2015年に編纂された『近江日野の歴史』全9巻に関連する古文書や資料の展示が行われており、訪れる人々にとって貴重な学びの場となっています。
旧山中正吉邸の敷地面積は約2000平方メートルで、そのうち約1300平方メートルが馬見岡綿向神社の参道に面しています。この広大な敷地には、主屋、座敷、新座敷、洋間、新建、納屋、蔵など、多数の建物が並んでおり、当時の商人の生活が偲ばれます。
主屋は、この地域の典型的な農家建築である四間取型を採用しています。切妻造瓦葦一部二階建てで、二階部分には低い開口部が設けられています。壁部分は漆喰塗りで、建物の規模は間口約13.9m、奥行約10.0mです。内部は土間と床部分に分かれており、台所土間には大釜付き五口くど(かまど)が残されています。
旧山中正吉邸の板塀には「桟敷窓」と呼ばれる特別な開口部が設けられています。この窓は、馬見岡綿向神社の例祭「日野祭」の際に家の中から祭りを見物するために使用されるもので、非常に珍しい造りです。毎年5月3日には、この桟敷窓から祭りを楽しむ人々が集まります。
日野祭は、毎年5月3日に行われる馬見岡綿向神社の例祭で、旧山中正吉邸の桟敷窓からは、祭りの巡行を楽しむことができます。この窓は、祭りの際に特別に設営された桟敷から曳山などの様子を眺めるための席として利用されており、地域の文化や伝統を象徴するものとなっています。
2008年から毎年開催される「日野・ひなまつり紀行」では、旧山中正吉邸も参加施設として、雛人形の展示を行っています。桟敷窓を通して雛人形を観賞することができ、訪れる観光客にとっても魅力的なイベントとなっています。
旧山中正吉邸の庭園には、梅の古木や石灯籠などが配置されており、静かで落ち着いた雰囲気を楽しむことができます。また、庭園には数々の石橋が架けられており、訪れる人々に日本庭園の美しさを感じさせます。
山中正吉家には、著名な画家高田敬輔が描いた龍虎画が残されています。彼は晩年にこの作品を描き、山中家に芸術的な価値をもたらしました。また、初代山中正吉自身も絵画をたしなみ、数々の作品を残しています。
「近江日野商人ふるさと館 旧山中正吉邸」は、近江商人の歴史と文化を今に伝える貴重な場所です。歴史的な建物や展示資料を通じて、訪れる人々は当時の商業活動や生活様式を学ぶことができ、地域との深いつながりを感じることができます。