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青岸寺

(せいがんじ)

青岸寺は、滋賀県米原市の太尾山の西麓に位置する、曹洞宗の仏教寺院です。山号は「吸湖山」と称され、近江湖北二十七名刹の第27番札所および近江七福神(福禄寿)としても知られています。特に、境内にある築山林泉式の枯山水庭園「青岸寺庭園」は、訪れる人々に人気の名勝地となっています。

寺院の概要

青岸寺の歴史と創建

青岸寺の創建は室町時代初期に遡り、開基は近江守護であった佐々木道誉(ささき どうよ)です。本尊は「お腹籠観音(おなかかごかんのん)」として知られる秘仏の聖観音坐像であり、佐々木六角氏頼(ささき ろっかく うじより)が造立したと伝えられています。

青岸寺庭園

青岸寺の背後には、日本庭園として有名な「青岸寺庭園」が広がっており、その美しさは国の名勝に指定されています。この庭園は、築山林泉式の枯山水庭園として、日本の庭園文化の一端を担っています。特に杉苔を用いた流水表現や、石組みを駆使した景観は訪れる者の目を楽しませます。

青岸寺の歴史

室町時代の創建と再興

青岸寺の創建は、室町時代の延文年間(1356年-1381年)に、近江守護の佐々木道誉によって「不動山米泉寺」として始まりました。その後、戦国時代に一度焼失しましたが、江戸時代の慶安3年(1650年)、彦根藩主であった井伊直澄(いい なおずみ)の命により、再び建て直されました。この時、彦根大雲寺の要津守三が入山し、敦賀の伊藤五郎助の寄進によって復興されたのです。

青岸寺への改名と曹洞宗への改宗

明暦2年(1656年)に伊藤五郎助が没した際、彼の諡(おくりな)である「青岸宗天」に因み、寺号が「青岸寺」、山号が「吸湖山」と改められました。また、この時点で寺は曹洞宗に改宗し、大雲寺の末寺としての地位を得ました。再興後の庭園は、井伊家家臣であった香取氏の手によって延宝6年(1678年)に再築されました。

文化財と見どころ

国指定の名勝「青岸寺庭園」

青岸寺庭園は、延宝6年(1678年)に江戸時代前期の様式で再築された庭園です。この庭園は、国の名勝に指定されており、その歴史的・文化的価値は高く評価されています。庭園の構成は、座視式を基本としながらも、広大な面積を持つため回遊式の要素も含んでいます。

庭園の特徴と構造

庭園の中心には、太尾山の斜面を背景に、石組みを巧みに配置して山の景観を再現しています。特に、力強い蓬莱島(亀島)を中心に据えたデザインが特徴的です。さらに、枯池泉の水の流れは一般的な白砂や土ではなく、杉苔を使用することで柔らかく表現されており、色のコントラストが庭全体の美しさを引き立てています。

重要文化財の仏像

青岸寺には、室町時代に作られた「木造聖観音菩薩坐像」があり、滋賀県の指定文化財として保存されています。また、鎌倉時代中期に作られた「木造十一面観音菩薩立像」も米原市指定の文化財となっており、多くの信仰を集めています。

青岸寺の見どころ

梅渓の襖絵と庭園の石組み

青岸寺の庭園には、梅渓の襖絵が見どころの一つです。庭園の左手前には亀島(蓬莱島)、奥には三尊石や不動智尊が配置され、石組みの配置が巧妙に計算されています。また、右手前には護岸石組が施されており、緑の杉苔が流水を表現する枯山水庭園の美しい景観を作り出しています。

庭園の歴史と『築園記』

庭園は、三世住持であった興欣による『築園記』にその歴史が記されています。延宝6年(1678年)、興欣の依頼により、玄宮園や楽々園の造園に携わった井伊家家臣の香取氏が作庭したとされ、江戸時代の庭園文化を知る上で重要な資料となっています。

書院「六湛庵」とその風景

近代に建てられた書院「六湛庵」は、青岸寺庭園の景観に見事に調和しています。この書院から眺める庭の風景は、四季折々の美しさを楽しむことができ、訪れる人々に静かな時間を提供します。

青岸寺へのアクセス

所在地と最寄り駅

青岸寺は滋賀県米原市米原669番地に位置しており、交通の便が非常に良い場所にあります。東海道新幹線、東海道本線、北陸本線、近江鉄道の各線「米原駅」から徒歩5分でアクセス可能です。

周辺の観光情報

青岸寺周辺には、旧米原尋常高等小学校や米原宿といった歴史的な見どころが点在しています。また、滋賀県道2号沿いには「道の駅近江母の郷」もあり、地元の特産品を楽しむことができます。

Information

名称
青岸寺
(せいがんじ)

長浜・米原

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