竹生島の宝厳寺は、本尊は大弁財天で、江ノ島や宮島と並ぶ「日本三弁才天」の一つであり、最も古い歴史を持つ弁才天です。西国三十三観音霊場の30番目の札所です。
宝厳寺の本堂は、急な165段の石段を登った頂上に位置しています。階段は「祈りの階段」と呼ばれ、巡礼者が祈りながら歩いた場所とされています。頂上からは、雄大な琵琶湖の絶景が広がります。
本堂では大弁才天が祀られています。大弁才天は秘仏であり、通常は非公開です。ただし、60年に1度公開され、次回の開帳は2037年です。
宝厳寺の舟廊下は、都久夫須麻神社から続いており、豊臣秀吉の御座船を利用して建てられました。この舟廊下は国の重要文化財に指定されています。
また、入り口に立つ唐門は国宝であり、京都東山の豊国廟から移築されたものです。
宝厳寺の起源は奈良時代にさかのぼります。開山時の724年に聖武天皇の勅命を受けた僧・行基によって開眼されました。国内の安穏と国家の鎮護を祈るために小堂に四天王像を安置したことから始まったと伝えられています。
現在の本堂は昭和17年に再建されました。本堂では「願いダルマ」と呼ばれる願掛けの奉納も行うことができます。
また、宝厳寺には国宝や重要文化財が数多く所蔵されています。
竹生島
琵琶湖の北部の沖合に浮かぶ神秘的な信仰の島です。古くから浅井姫命が鎮座し、水神として崇められ、船の安全な航路を守る神として信仰を集めてきました。
琵琶湖で二番目に大きい島で、周囲は約2kmです。小島ですが、島自体は巨大な一枚の花崗岩でできています。
竹生島は琵琶湖八景の一つに数えられ、平家物語や謡曲にも美しい島として登場し、千年以上経った今でもその姿は人々を魅了し続けています。琵琶湖に浮かぶ関西有数のパワースポットとして、多くの人々が訪れています。
竹生島 宝厳寺の起源
724年に聖武天皇が夢の中で天照皇大神から「江州の湖中に小島があり、それは弁才天の聖地である。寺を建立すれば国家の安泰や五穀の豊かさ、人々の幸せに繋がるだろう」というお告げを受けたことに始まります。
聖武天皇は僧行基を勅使として派遣し、堂塔を建てさせました。行基はすぐに弁才天像を本堂に安置し、翌年には観音堂の建立を提案しました。
後に、浅井氏の大領が千手千眼観世音菩薩像を安置しました。以来、天皇の行幸や伝教大師、弘法大師などの修行者が訪れ、修行を積んでいったと言われています。
宝厳寺本堂の見どころ
現在も多くの人々が訪れる西国33箇所観音霊場の30番目の札所となっていることです。本堂には大弁才天が安置されており、江ノ島神社や宮島の厳島神社と並ぶ「日本三弁才天」の一つです。
本堂には宇賀弁才天座像も鎮座しており、頭頂部には小さな宇賀神が乗り、鳥居が飾られています。また、内陣の壁画は荒井寛方画伯によるもので、「諸天神の図」と「飛天の図」と呼ばれています。
弁才天は七福神の一人であり、古くから民衆の信仰を集めてきました。人々の清き心を守り、「富貴・名誉・福寿」や「愛嬌縁結びの徳」「子孫」をもたらす神として崇められています。
元々はインド古代信仰の水を司る神「サラスヴァティー神」であり、仏教において守護神として取り入れられました。
水は汚れを洗い流す力があると考えられており、清らかな心を持つ人々を守る神として信仰を受け、修行者の守り神としても祭られるようになりました。
そのため、芸道や商売の守護神としても広く信仰されています。秘仏である大弁才天は60年に1度しか開帳されず、次回の開帳は2037年です。
弁天様の幸せ願いダルマ
弁才天座像の周囲を真っ赤に彩っています。このダルマは可愛らしい顔をした弁天様で、手には琵琶を持っています。
一つ一つ手書きで描かれており、それぞれの顔や表情に個性があります。笑顔の弁天様を見るだけで安らぎを感じることができます。
自分の気に入ったダルマを見つけて、お願い事を書いた紙をダルマの中に入れて奉納することで願いをかけることができます。奉納すると、可愛らしいストラップ御守がもらえるため、人気があります。
宝厳寺本堂(竹生島)へのアクセス
竹生島へは「長浜港」「今津港」「彦根港」から定期便でアクセスできます。各港には無料駐車場があります。長浜港や今津港から竹生島までの所要時間は約30分で、琵琶湖汽船の定期クルーズ「竹生島クルーズ」に乗船することができます。彦根港から竹生島までの所要時間は40分で、オーミマリンが運航しています。
宝厳寺(ほうごんじ)は滋賀県長浜市の竹生島にある真言宗豊山派の寺院です。山号は巌金山(がんこんさん)。本尊は大弁才天であり、観音堂は西国三十三所の第30番札所で、本尊は千手観世音菩薩です。
宝厳寺は観音霊場であり、また弁才天信仰の聖地でもあり、日本三大弁天の一つとされています(他の二つは大願寺と金亀山与願寺です)。
竹生島は琵琶湖の北端に浮かぶ小さな島で、周囲は約2キロメートル、面積は約0.14平方キロメートルです。この島は国の史跡・名勝に指定されており、急な断崖がほとんどで、南東部には船着き場があります。
宝厳寺と都久夫須麻神社のほかには数軒のみやげ物店がありますが、信仰の島として知られています。
現在は宝厳寺と都久夫須麻神社が「寺」と「神社」として区別されていますが、実際には明治時代初期の神仏分離令以前から神仏習合の信仰が行われていた歴史があります。
歴史
宝厳寺は奈良時代に僧・行基によって開創された歴史ある寺院です。行基は河内国出身で、多くの寺を建立し、社会事業にも尽力し、民衆からの広範な支持を受けていた僧です。
宝厳寺の創建は神亀元年(724年)とされており、行基が竹生島に都久夫須麻神社とともに訪れ、大弁才天を祀ったことが起源とされています。
しかし、『竹生島縁起』によれば、行基の来島は天平10年(738年)で、小堂を建てて四天王を祀ったことが始まりとされています。天平勝宝5年(753年)には、浅井直馬養が千手観音を造立し、安置されました。
当初は本業寺と呼ばれ、東大寺の支配下にありましたが、平安時代前期の10世紀頃からは比叡山延暦寺の傘下に入り、天台寺院となりました。その後、竹生島は天台宗の僧侶たちの修行の場となりました。
宝厳寺の境内にあった都久夫須麻神社は、かつては近江国浅井郡の神社で、浅井姫命を祭神としていました。
しかし、浅井姫命は浅井氏の氏神であり、水の神としても崇められていました。そのため、平安時代末期には弁才天と同一視されるようになり、やがて市杵島比売命としても祀られるようになり、神仏習合が進んで宝厳寺と都久夫須麻神社は一体化していきました。
寺名と社名も結びつき、竹生島大神宮寺や竹生島権現などとも呼ばれ、観音と弁才天の信仰の中心地として栄えました。後には宝厳寺とも呼ばれるようになりました。
中世以降、宝厳寺は何度か火災に見舞われましたが、都度復興されました。江戸時代には弁才天信仰と西国三十三所観音霊場の札所として賑わいました。
明治時代には神仏分離令が出され、宝厳寺は危機に直面しましたが、大弁才天が仏であるとの主張から寺は存続しました。
しかし、寺と神社は分離され、竹生島の信仰施設は宝厳寺と都久夫須麻神社に分かれることになりました。現在、宝厳寺と都久夫須麻神社は別々の法人ですが、本堂と本殿は渡り廊下でつながっており、両者は密接な関係にあります。
戦時中の1942年には現在の本堂が建立され、再び大弁才天が祀られるようになりました。また、2013年から2020年にかけて、唐門や観音堂などの修復が行われました。修復には、屋根の葺き替えや彫刻の修理、漆の塗り直し、金具の修復などが含まれています。
境内には以下の建物や施設があります。
9:00~16:30
入島料(宝厳寺・都久夫須麻神社共通)
大人(中学生以上)600円
小人 300円
宝物殿拝観料
大人 300円
小人 250円