蓮華寺は、滋賀県米原市に位置する浄土宗の本山で、八葉山を山号とし、発遣の釈迦如来と来迎の阿弥陀如来の二尊を本尊としています。長い歴史とともに、数々の文化財や自然の美しい景観が残る蓮華寺は、多くの人々に親しまれています。
所在地は滋賀県米原市番場511で、JR米原駅からバスで10分ほどの位置にあります。境内には本堂や庭園などの建物が点在しており、また忠太郎地蔵尊や一向杉など、歴史的・文化的な見どころも豊富です。近年ではダンス賞「踊躍賞」を創設し、新たな文化交流の場ともなっています。
蓮華寺の創建は推古天皇23年(615年)にさかのぼり、聖徳太子がこの地に寺を建立したことに由来します。当初は「法隆寺」と名づけられましたが、建治2年(1276年)の火災により一度焼失しています。その後、弘安7年(1284年)、地元の鎌刃城主であった土肥元頼が、踊り念仏で知られる一向俊聖を招き、再建を果たしました。寺名も「八葉山蓮華寺」と改められ、浄土宗の寺院として再興されました。
再建後、蓮華寺は鎌倉時代末期に花園天皇の勅願所となり、天皇家の菊の御紋の使用が許可されました。また、元弘3年/正慶2年(1333年)には、鎌倉幕府を打倒する足利尊氏らの挙兵に関連して、当寺は六波羅探題北方の北条仲時一行の自刃の場としても歴史に名を残しています。
元弘3年/正慶2年に、北条仲時率いる一行は六波羅探題が落城した後、京都を脱出し鎌倉への逃走を試みました。しかし道中で追手に阻まれた仲時一行は蓮華寺に入り、覚悟を決めて432名と共に本堂前で自刃しました。この出来事を悼んだ当時の住持・同阿上人は、彼ら一人一人に戒名を与え『陸波羅南北過去帳』に記録しました。寺内には北条仲時主従の墓が整備され、彼らの霊が弔われています。
応仁の乱以降、蓮華寺は度重なる戦乱により衰退しましたが、天文8年(1539年)に浅井亮政により復興が許されました。江戸時代には時宗一向派の大本山とされ、踊り念仏の一遍とも同一視されました。しかし明治時代に浄土宗への復帰運動が起こり、1942年には正式に浄土宗へと転宗し、浄土宗本山の格式を得ることとなりました。
蓮華寺には多くの貴重な文化財が所蔵されています。これらは歴史的価値が高く、多くの観光客に見学されています。
蓮華寺の境内には、本堂や庭園、忠太郎地蔵尊や一向杉などの見どころが多くあります。訪れる人々に心の安らぎを提供し、歴史の奥深さを感じさせる場所です。
蓮華寺の本堂には後水尾天皇の筆による「蓮華寺」という勅額が掲げられており、元禄5年(1692年)11月16日に下賜されたと伝えられています。堂内には宝物室もあり、貴重な仏教美術品が展示されています。
本堂の前には「蓬莱庭」と呼ばれる美しい庭園が広がっており、四季折々の自然の美しさを楽しむことができます。訪れる人々の心を和ませ、静寂なひとときを提供しています。
地蔵尊は、長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公である忠太郎の地蔵尊です。1958年に建立され、毎年夏には「忠太郎地蔵まつり」が開催されています。この地蔵尊は、番場出身の博徒として知られる忠太郎を供養するために建立されたものです。
樹齢700年を超える一向杉は、弘安10年(1287年)に一向俊聖が亡くなった際に、その地に植えられたとされています。滋賀県指定の自然記念物で、訪れる人々に歴史の長さと自然の神秘を感じさせます。
境内には北条仲時と六波羅探題の武士たちが自刃した際に建立された墓があります。これらの墓石は、歴史の悲劇を物語る重要な場所となっています。
蓮華寺の勅使門には、花園上皇より賜った菊の御紋が施されています。この門は、蓮華寺が天皇家とゆかりがあることを象徴する建造物です。
蓮華寺は、JR西日本・JR東海・近江鉄道 米原駅より湖国バスにて約10分、「番場」または「蓮華寺下」で下車し徒歩数分で到着します。また、車でのアクセスも可能で、名神高速道路の米原インターチェンジから車で15分ほどです。蓮華寺の駐車場も完備されています。
蓮華寺はその歴史と文化財、美しい庭園や伝統行事を通じて、訪れる人々に深い感銘を与える寺院です。鎌倉時代から続く勅願所としての格式や、忠太郎地蔵尊や一向杉などの見どころが豊富で、地元住民や観光客からも愛される存在です。特に北条仲時一行の自刃事件に関連する史跡は、歴史の重みを感じさせる重要な場所であり、日本史に興味がある方には必見のスポットと言えるでしょう。