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都久夫須麻神社(竹生島神社)

(つくぶすま じんじゃ ちくぶしま)

都久夫須麻神社は、琵琶湖に浮かぶ竹生島に鎮座する神社です。竹生島神社とも呼ばれており、神体は竹生島そのものです。

祭神については複数の説がありますが、市杵島比売命(弁財天)、宇賀福神、龍神、そして浅井比売命の4柱が祭られています。浅井比売命は浅井氏の氏神であり、琵琶湖の湖水を統べる神とされています。

滋賀県神社庁や長浜市の記述によれば、都久夫須麻神社の祭神は、市杵島比売命(宗像三女神の一柱)と宇賀福神(宇賀弁才天の別名)の2柱とされています。

また、浅井比売命(産土神)と龍神(八大龍王の一尊である黒龍)を祀る黒龍堂もあります。

450年前には豊臣秀頼の寄進により、片桐且元を普請奉行として伏見桃山城の日暮御殿(勅使殿)が移築され、国宝となりました。拝殿からはかわらけ投げが行われます。

かつては宝厳寺と習合し、竹生島弁才天社や竹生島権現などと呼ばれていました。日本三大弁才天や日本五大弁才天の一つとしても知られています。

黒龍堂は宝厳寺の境内にありますが、建築様式は神道の小祠で、前に鳥居が建てられています。黒龍堂には黒龍大神と黒龍姫大神の二柱が祀られており、黒龍伝説に関連する神木のそばにあります。

宝厳寺 観音堂から舟廊下を渡ると、都久夫須麻神社 本殿の横に出ます。本殿の前には石段があり、下りると都久夫須麻神社の拝殿があります。

ここでは、かわら投げが行われます。素焼きの小皿に願いを書き、岩場に立つ鳥居に向かって投げると、鳥居をくぐることで願いが叶うと言われています。ぜひチャレンジしてみてください。

現在の本殿は、総桧皮葺きで入母屋造りです。正面には向殿があります。創建以来、何度も火災によって焼失しましたが、戦国時代に再建されました。

建物は前後に唐破風があり、周囲には庇がめぐらされた複雑な構造を持っています。内部には狩野光信の筆による襖絵や絵天井があります。美しく描かれた四季の花々は感動的です。黒漆地に施された花鳥文様の蒔絵も見事です。

都久夫須麻神社 本殿の祭神は湖水を支配する浅井姫命です。明治4年(1871年)の神仏分離以前は竹生島明神や竹生島弁財天社と呼ばれ、宝厳寺と関係がありました。

本殿は創建以来何度も焼失しましたが、戦国時代に再建され、その後は豊臣秀頼が伏見城の日暮御殿を移築し改修を行いました。

そのため、前後には唐破風があり、周囲を庇が囲んだ複雑な建築様式となっています。

内部には狩野光信による襖絵や絵天井があり、特に60の格間を持つ格天井は、金地に繊細なタッチで描かれた四季の花弁が美しく表現されています。柱や床、長押には黒漆地に花鳥文様の蒔絵が施され、華やかで豪華な桃山文化の雰囲気を今に伝えています。

また、6月10日から15日には古式ゆかしい祭礼「竹生島祭」が行われ、島はこの時期に最も賑わいます。竹生島港からは徒歩で約7分です。

本殿【国宝】

都久夫須麻(竹生島)神社の本殿は、豊臣秀吉が寄進した伏見桃山城の束力使殿を移築したもので、国宝に指定されています。内部は優雅で華麗な装飾が施された桃山時代を代表する建築物です。天井画は60枚で狩野永徳光信による作品であり、黒漆塗りの桂長押には金蒔絵が施されています。内陣の拝観は現在中止されています。

常行殿

平成9年に木澤源平氏によって建造された修業道場であり、参籠やお茶席の設置も行われています。ここでは一服しながら日常の喧騒を忘れ、ゆっくりとくつろぐことができます。

龍神拝所

拝殿の突き出した場所に竜神拝所があります。びわ湖に面しており、竹生島の中で最も絶景となっています。ここでは土器に願い事を書き、湖面に突き出た宮崎鳥居へと投げる「かわらけ投げ」を楽しむことができます。また、かわらけが鳥居をくぐれば、願いが叶うとも言われています。

竹生島

琵琶湖の北部の沖合に浮かぶ神秘的な信仰の島です。古くから浅井姫命が鎮座し、水神として崇められ、船の安全な航路を守る神として信仰を集めてきました。

琵琶湖で二番目に大きい島で、周囲は約2kmです。小島ですが、島自体は巨大な一枚の花崗岩でできています。

竹生島は琵琶湖八景の一つに数えられ、平家物語や謡曲にも美しい島として登場し、千年以上経った今でもその姿は人々を魅了し続けています。琵琶湖に浮かぶ関西有数のパワースポットとして、多くの人々が訪れています。

見どころ

本殿内部は伏見城の遺構とされており、襖や柱、欄間には桃山時代を代表する優雅で美しい装飾が施されています。特に襖絵や60枚の天井画は、狩野光信の作品と伝えられています。黒漆塗りの桂長押しには金蒔絵(高台寺蒔絵)が施され、要所には精巧な金具が使われています(ただし、内陣の拝観は中止中です)。

常行殿は本殿の右奥に位置しており、見落とされがちです。この建物は木澤源平氏によって平成9年に建造され、現在は修業道場や参籠の場として利用されています。季節によってはお茶席が設けられ、一服しながらくつろぐことができます。日常の喧騒を忘れてゆっくりと寛いでください。

アクセス

竹生島へは「長浜港」「今津港」「彦根港」から定期便でアクセスできます。各港には無料駐車場があります。長浜港や今津港から竹生島までの所要時間は約30分で、琵琶湖汽船の定期クルーズ「竹生島クルーズ」に乗船することができます。彦根港から竹生島までの所要時間は40分で、オーミマリンが運航しています。

竹生島には、宝厳寺と都久夫須麻神社が位置しており、竹生島港から石造りの鳥居を通って参道を進むと、宝厳寺の伽藍が中央に見えます。

都久夫須麻神社の社殿は、本殿(左側)と常行殿(右側)からなり、改修時に目立つ白い壁があります。また、八大竜王拝所の鳥居も目にすることができます。

周囲の水域は琵琶湖の深い場所であり、その美しい景色が琵琶湖八景の「深緑 竹生島の沈影」として選ばれています。

竹生島の縁起には、複数の記録が存在します。承平縁起は、竹生島の縁起として最も早いもので、成立は平安時代後期の931年とされています。また、応永縁起や岩金山太神宮寺儀軌、竹生嶋縁起なども存在します。

承平縁起によれば、竹生島はタタミヒコノミコトとアサイヒメノミコトという神々の対立に由来しており、タタミヒコノミコトがアサイヒメノミコトの首を斬り、それが湖に落ちて竹生島となったという伝承があります。

また、国土の形成時には龍神が五つの神杭を打ち込んでおり、そのうちの一つが竹生島であったとされます。竹生島は、日本の霊的な起源の一つとされています。

創建

『惣国風土記』によれば、辺津宮は雄略天皇3年(459年)に建てられた小さな祠で、アサイヒメノミコト(浅井比売命)を祀っていたと伝えられています。これを創建とされています。また、別の伝承では、天智天皇が志賀宮(近江大津宮)を建てる際に竹生島にアサイヒメノミコト(浅井比売命)が祀られたとも言われています。

聖武天皇の夢によれば、神亀元年(724年)に天照大神が現れ、「琵琶湖に小島があり、そこは弁才天の聖地であるから寺院を建てよ」との神託がありました。そこで行基が勅使として竹生島に派遣され、大弁才天を祀って寺院(宝厳寺)を建立しました。

また、天平3年(731年)に聖武天皇自らが参拝し、アメノオシホミミノミコト(天忍穂耳命)とオオナムチノミコト(大己貴命)を祀ったとされます。さらに、行基が弁才天の像を彫り、本尊として祀ったと伝えられています。

応永縁起によれば、天平10年(738年)に訪れた行基が霊異を感じ、聖朝の安穏と国家の鎮護のために四天王像を作り、小堂に安置したと言われています。

『帝王編年記』によれば、天平神護元年(765年)に天平宝字8年(764年)に藤原仲麻呂が反乱を起こした際、官軍が竹生島の神に祈願し、藤原仲麻呂の乱鎮圧に助けられたため、竹生島権現(宝厳寺・都久夫須麻神社)に従五位上の位階が授けられたとされています。

初見史料は『日本三代実録』に記載された「祥瑞である連理木が筑夫嶋神社前に生えた」との報告記事であり、これは元慶3年(879年)のことです。『延喜式神名帳』には「近江国浅井郡都久夫須麻神社」と記載され、式内小社に列せられています。

本地垂迹時代

平安時代末期からは、弁才天と同一視される市杵島比売命も祀られるようになりました。宝厳寺の本尊である大弁才天が本地仏とされ、神仏習合が進みました。このため、都久夫須麻神社と宝厳寺は徐々に一体化していきました。

このようにして、「竹生島大神宮寺」「竹生島権現」「竹生島明神」「竹生島弁才天社/竹生島弁財天社」などの名称で呼ばれるようになりました。また、竹生島権現では大弁才天だけでなく、古くから千手観音も祀られ、平安時代末期には西国三十三所の観音霊場となっていました。

現在でも「日本三弁天」の一つとして数えられ、竹生島権現は「日本最古の弁才天」「弁才天の発祥地」として称されています。

中世以降、竹生島権現は貞永元年(1232年)、享徳3年(1454年)、永禄元年(1558年)などに大火に見舞われ、社殿が焼失しましたが、そのたびに再建されました。

慶長7年(1602年)には豊臣秀頼が竹生島権現の復興を行い、唐門や観音堂、渡り廊下などが建てられました。これらの建物は、京都東山の豊国廟から移築されたものや伏見城の日暮御殿から移築されたものです。

神仏分離後

明治時代になると、新政府は国家神道を確立するために神仏分離を推進し、廃仏毀釈運動が広まりました。竹生島権現もその影響を受け、大津県庁は竹生島権現宝厳寺を廃寺にして神社とし、「都久夫須麻神社」と改名するよう命じました。

それまでは、都久夫須麻神社は完全に宝厳寺の一部となっていたため、その存在がほとんど忘れられていました。ただし、宝厳寺は多くの崇敬者の要望によって廃寺を免れ、寺院と神社が共存することとなりました。

1874年には宝厳寺と都久夫須麻神社の境界が定められ、本堂が都久夫須麻神社の本殿となりました。1883年には寺の財産と神社の財産が区別され、現在に至っています。

現在、宝厳寺と都久夫須麻神社は別の法人ですが、宝厳寺の観音堂と都久夫須麻神社の本殿は渡り廊下で直接繋がっており、両者は元々密接な関係にあることが分かります。

境内

都久夫須麻神社は島の南東部に位置しています。以前は宝厳寺と一体であり、現在の本殿となっている場所は島の境内でした。

本殿(国宝)

豊臣秀頼が木幡山伏見城の勅使殿「日暮御殿」の一部を寄進したとされています。他方、豊国廟を移築したとも言われています。

この建物は装飾性豊かな桃山建築で、建物の中心部に身舎、周辺部に庇があり、2つの異なる建物が合体しています。

本殿は永禄元年(1558年)に火災で焼失し、永禄10年(1567年)に再建されましたが、現存するのは庇と向拝の部分に当たります。身舎部分は慶長7年(1602年)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として他所から移築したものです。

本殿全体の規模は、桁行5間、梁間4間で、屋根は入母屋造、檜皮葺です。身舎部分と庇部分は別々の建物であり、一部の納まりが不完全な点があります。

身舎部分には黒漆塗りの柱や長押などの軸部材があり、飾金具を使用し、平蒔絵で草花が描かれています。身舎の正面中央間には黒漆塗りの桟唐戸があり、菊文様の装飾彫刻が施されています。

両脇間には菊と芙蓉の彫刻と瑞鳥が飾られています。背面中央間の桟唐戸は後に追加されたものです。両側面の中央間は外側が舞良戸、内側が戸襖となっています。背面と側面にも彫刻があります。

身舎の内部は畳敷きで、天井は折上格天井です。天井の格間や戸襖には金地著色で菊や松、梅、桐などの植物が描かれています。庇は正面側全体が吹き放しで、内法長押より上方には各間に装飾彫刻が施されています。

庇の両側面は内法上部には4間全てに装飾彫刻が施され、内法下部は前寄り3間に牡丹唐草の彫刻が施されています。これらの庇部分の彫刻には途中で断ち切られた箇所があり、本来は別の建物に属していた彫刻が転用されたものと考えられています。

摂社

境内には天忍穂耳神社、大己貴神社、厳島江島神社の3つの摂社があります。参道はかつて一の鳥居から早崎村を経て船で竹生島に続く道でしたが、現在は竹生島港と竹生島の湊を結んでいます。

神木

竹生島の神木があり、宝厳寺の黒龍堂には黒龍が祀られています。竹生島の神木と黒龍堂は一体であり、宝厳寺と直接つながっています。

境内には湖から龍が昇ってくると言われる神木があります。この神木は「日本名木百選」にも選ばれています。

宝厳寺の黒龍堂には八大竜王の一尊である黒龍が祀られており、黒龍堂は神木にまつわる黒龍伝説の横に建てられています。

黒龍堂と八大竜王拝所は直接的には繋がっていませんが、明治時代初期の神仏分離令によって社と寺が引き離されたためで、竹生島の神木と黒龍伝説、そして八大竜王拝所は一体であり、黒龍堂と神社の本殿はつながっています。

また、弁財天社や白巳社も境内にあります。

拝所の社殿

八大竜王を祀る拝所です。正式名称は「八大竜王拝所」ですが、通称では「竜神拝所」とも呼ばれています。竹生島は琵琶湖の最北部に位置し、南側に広がる湖面を一望することができます。

拝所は島の南端の崖(岩場)に位置しており、波打ち際には「宮崎鳥居」と呼ばれる鳥居が建っています。鳥居の前には拝殿があり、その内部には龍神の祭壇があります。

祭壇の両脇には弁才天の神使である白巳大神(白蛇神)を象った一対の像が安置されています。ただし、ここでの白巳大神は弁才天の神使ではなく、琵琶湖の龍神の神使としての立場です。

この拝所では今もかわらけ投げの風習が残っています。ここでのかわらけ投げは、湖に住む八大竜王に願いを届けて成就してもらうためのもので、願いを込めたかわらけを社殿から鳥居の先にある湖に向かって投げ、鳥居をくぐれば願いがかなうとされています。鳥居の周辺にはたくさんのかわらけが堆積しています。

また、『平家物語』や『源平盛衰記』によれば、平経正が寿永2年(1183年、平安時代末期)にこの拝殿で仙童(仙人に仕える子供)の琵琶で秘曲を演奏したという逸話もあります。

常行殿

社務所として利用される常行殿は、建築史学者・伊藤延男の監修の下、社寺建築家・木澤源平によって建造されました。現在は修業道場や参籠の場として利用されています。

境外

辺津宮

辺津宮は、小さな神社ですが、東側の県道331号線(さざなみ街道)と県道255号線の交差点近くに位置し、中世から近世にかけて、ここから島への船が出ていました。

一の鳥居

一の鳥居は、辺津宮の前を走る県道255号線の北端、早崎町の市街地の畑の中に建っています。鳥居には「天明六丙午歳六月良辰」という文字があり、天明6年(1786年)に江戸の商人である江嶋屋甚兵衛の指導のもと、地元の住民が協力して建てられました。1954年の伊勢湾台風で倒壊しましたが、修復され、現在も残っています。

天明6年以前は木製の鳥居だったと言われています。中世から近世の参詣者はこの鳥居をくぐり、西に向かって参道を進み、辺津宮を参拝した後、早崎から竹生島へ船で渡ったそうです。そのため、かつての早崎は竹生島権現の門前町でした。

現在の早崎や周辺の下八木や富田の集落は、中世から安土桃山時代にかけて益田郷の南部に位置していましたが、竹生島権現に奉仕する習慣があり、それが現代にまで続いています。また、竹生島から北東の岸にある尾上からも船が出ていました。

Information

名称
都久夫須麻神社(竹生島神社)
(つくぶすま じんじゃ ちくぶしま)
リンク
公式サイト
住所
滋賀県長浜市早崎町1665 竹生島
電話番号
0749-72-2073
料金

入島料(宝厳寺・都久夫須麻神社共通)
大人(中学生以上)600円
小人 300円

駐車場
長浜港に駐車場あり
アクセス
  • JR長浜駅 徒歩10分の長浜港から琵琶湖汽船乗船30分
  • JR近江今津駅 徒歩5分の今津港から琵琶湖汽船乗船30分
  • 大津港からの琵琶湖汽船の直行便 片道2時間15分
  • JR彦根駅より無料シャトルバス8分の彦根港からオーミマリン乗船40分
  • JRマキノ駅より徒歩10分の奥琵琶湖マキノグランドパークホテル敷地内のマキノ桟橋からオーミマリン乗船25分

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