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国友

(くにとも)

滋賀県長浜市の国友は、近江国坂田郡に位置し、現在は長浜市国友町として知られています。この地域は、戦国時代から江戸時代末期にかけて、堺や根来と並び称される鉄砲の生産地として発展しました。国友の名は単なる地名にとどまらず、国友で活躍した職人や、国友で生産された銃をも指す言葉として広く知られています。

国友と鉄砲生産の歴史

戦国時代における鉄砲生産の起源

国友における鉄砲製造の歴史は、天文13年(1544年)にさかのぼります。将軍・足利義晴の依頼を受け、国友の職人たちは銃の見本を参考にして製作を開始しました。この記録は『國友鉄砲記』に残されており、正確な年は議論の余地があるものの、1544年に六匁玉の鉄砲2挺が将軍に献上されたと伝えられています。その後、1549年には織田信長が国友の職人たちに500挺の鉄砲を発注したという記録があります。

信長と秀吉の時代

1570年の姉川の戦いを機に、織田信長は国友村を所領とし、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)にこの地域の鉄砲生産を推進させました。その結果、国友は鉄砲製造の中心地としてさらに発展を遂げました。

江戸時代の鉄砲生産と技術の発展

江戸幕府の成立後、国友は徳川家康の統治下に入り、慶長12年(1607年)には国友の職人4名が鉄砲代官に任命されることとなりました。この頃、国友の鉄砲産業は最盛期を迎え、大坂夏の陣の際には、国友村に73軒の鉄砲鍛冶が存在し、500名の職人が活動していたとされています。しかし、平和な江戸時代になると鉄砲の需要は急減し、産業は徐々に衰退していきました。

鉄砲技術のその後と文化への影響

江戸時代後期、国友の鉄砲職人たちは幕府と密接な関係を保ち、江戸城での銃器メンテナンスも行っていました。また、各地の領主に招かれて、その地で活動を続ける職人も多く存在しました。これにより、国友の技術は各地で広まり、鉄砲以外の工芸品や技術にも影響を与えました。現在では、国友の技術は長浜八幡宮の祭りに使われる曳山(山車)や、長浜仏壇の金具に活かされています。

国友鉄砲の特徴

堺との違いと国友の「機能美」

堺の鉄砲が豪華な装飾金具や象嵌を特徴とする「見た目の付加価値」を重視していたのに対し、国友の鉄砲は機能性を追求した「機能美」で知られていました。日本の古式銃の約4分の1が国友銘とされ、堺と人気を二分していました。また、名工として知られる職人たちの中には、工人台師の「大嶋吉兵衛」や象嵌師の「臨湖堂充胤」などがいます。

国友一貫斎と革新的な発明

国友出身の発明家である国友一貫斎(藤兵衛重恭)は、蓄気ボンベ式の空気銃である「気砲」や、高性能の望遠鏡の開発で知られています。また、国友は日本におけるネジの発祥の地としても有名です。これらの技術は、当時の日本の科学技術の発展に大きな貢献を果たしました。

観光スポット:国友鉄砲の里資料館

概要

「国友鉄砲の里資料館」は、滋賀県長浜市にある博物館で、戦国時代から江戸時代にかけて鉄砲生産地として栄えた国友の歴史を紹介するために設立されました。1987年(昭和62年)10月10日に開館し、国友に関連する歴史的な資料を保存・展示しています。館内では、国友で作られた鉄砲(火縄銃)が大量に展示されており、国友一貫斎や遠州流茶人の辻宗範など、国友ゆかりの文化人についての展示も行われています。

展示内容

館内は2階建てで、以下のような展示が行われています。

1階
2階

利用情報

国友鉄砲の里資料館は、以下の情報に基づいて訪問することができます。

交通アクセス

国友鉄砲の里資料館へのアクセス方法は以下の通りです。

周辺の観光スポット

国友地域を訪れた際には、周辺の観光スポットも一緒に楽しむことができます。特に、歴史的な街並みが残る黒壁スクエアは、多くの観光客に人気のエリアです。

まとめ

国友は、日本の鉄砲製造の歴史を知る上で非常に重要な地域です。その技術と伝統は、現代にも受け継がれ、地域の文化と観光に深く根付いています。歴史を感じながら国友鉄砲の里資料館を訪れることで、日本の技術史や職人文化について深く理解することができるでしょう。

Information

名称
国友
(くにとも)

長浜・米原

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