土山宿(旧字体:𡈽山・圡山)は、近江国甲賀郡に位置していた東海道五十三次の49番目の宿場町です。現在の滋賀県甲賀市土山町北土山および土山町南土山に該当します。
歌川広重が描いた「東海道五十三次・圡山」の作品は、土山宿の当時の雰囲気を伝える重要な資料です。土山宿は古来から交通の要衝として栄え、多くの旅人たちが行き交う宿場町でした。
土山宿の歴史は平安時代に遡ります。当時、伊勢参宮道が鈴鹿峠を越える旧東海道筋を通るようになり、土山は難所を控える重要な宿駅として発展を遂げました。
鎌倉時代に入ると、京都と鎌倉を結ぶ東西交通がさらに重要視され、武士だけでなく商人や庶民も頻繁にこの道を利用するようになりました。これにより、土山はさらに交通の要として賑わいを見せました。
江戸時代に入り、江戸幕府によって土山が宿駅として正式に指定されると、宿場町としての本格的な発展が始まります。宿場の中心である御役町には、問屋場、本陣、脇本陣があり、その周囲には旅籠や店、茶屋などが軒を連ねていました。
1843年に作成された「東海道宿村大概帳」によると、土山宿には家数351軒、人口1,505人、本陣2軒、旅籠屋44軒があったとされています。これは当時の宿場町の繁栄ぶりを示す重要な記録です。
鈴鹿馬子唄には「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」という一節があり、土山が鈴鹿峠の近くにあることから、その険しい道のりと天候の変化が詠まれています。
明治元年(1868年)9月22日、明治天皇は東京行幸中に土山宿に宿泊しました。この際、宿泊先となった本陣で天皇の誕生日を祝う第1回天長節の祝賀行事が行われました。天長節は天皇の誕生日を祝う行事であり、この時がその始まりとされています。
明治時代になると鉄道の敷設が進みますが、土山宿は鈴鹿峠の急勾配が蒸気機関車には不利であったため、鉄道は寺庄経由に変更され、土山は交通の中心から外れてしまいました。
土山宿には、軒を連ねた家並みや格子戸、薄茶色の舗装、そして松並木など、旧東海道の雰囲気が色濃く残っています。旅籠屋跡の石碑も多く立っており、当時の面影をしのぶことができます。
田村神社は、土山宿周辺で最も重要な神社の一つです。歴史的にも信仰の中心地として多くの人々に愛されてきました。
現在では、観光客が休憩できる「道の駅あいの土山」があり、土山の名産品や地元の食材を楽しむことができます。
扇や櫛を販売していた商家の歴史を伝える文化施設です。ここでは地元の工芸品や土山宿の特産品が展示・販売されています。
旅籠井筒屋は、森鷗外の祖父である森白仙が亡くなった場所です。その遺骸は川沿いの墓地に埋葬され、今もその場所が史跡として残されています。
東海道伝馬館では、当時の問屋場の様子を復元した展示のほか、東海道や土山宿に関する資料が数多く展示されています。森鷗外も宿泊した歴史的な場所として有名です。
常明寺は土山茶の発祥地と伝えられており、また森鷗外が祖父の森白仙の改葬を行った場所でもあります。現在では森家の供養塔が整備され、訪れる人々にとって重要な歴史的スポットとなっています。
垂水斎王頓宮跡は国の史跡に指定されており、天皇の名代として伊勢神宮に遣わされた斎王が一夜を過ごした仮の宮です。毎年3月には「斎王群行」と呼ばれる行列がここまで再現されます。
瀧樹神社では、毎年5月3日に「ケンケト踊り」と呼ばれる無形民俗文化財の奉納が行われます。この日は他にも花奪神事や神輿の渡御などがあり、地域の伝統行事が色濃く受け継がれています。
岩神社はかつて奇岩が多く存在し、野洲川の清流が流れる景勝地として知られていました。また、子どもの成長を祈る神としても信仰されています。
お六櫛は、伊勢参宮からの帰りに土山で病にかかった旅人が、村人の手厚い看護を受けたお礼として櫛の製造法を伝えたことから始まりました。この櫛は一時期土産品として人気を博しましたが、明治20年代にはほとんどの店がなくなってしまいました。
土山は茶の生産地としても知られ、あけぼの茶(土山茶)はこの地域の特産品として有名です。茶の栽培は古くから続いており、現在でも多くの人々に親しまれています。
蟹ヶ坂飴は、土山の伝統的な飴として知られており、甘く素朴な味わいが特徴です。土産品として多くの人々に愛され続けています。