己爾乃神社は、滋賀県守山市洲本町に位置する歴史ある神社です。『延喜式神名帳』に「己尓乃神社 二座」と記されており、近江国野洲郡に所属する式内社として知られています。この神社は、約500メートルの間隔を隔てて2つ存在し、どちらも「己爾乃神社」として信仰されてきました。これらの神社は、かつて野洲川南流が流れていた場所の左岸堤防上に位置していたことから、河川に対する信仰に由来するものと考えられています。
これら2つの己爾乃神社は、それぞれ式内社の伝承を持っていますが、地理的および史料的な観点から、どちらが本来の式内「己尓乃神社」であるかを決定することは困難です。むしろ、この2社が一体となって式内「己尓乃神社」を構成し、かつては祭祀においても密接なつながりを持っていた可能性が指摘されています。
己爾乃神社の1つは、滋賀県守山市洲本町字開発に鎮座しています。この神社は鎮座地の名にちなんで「開発の己爾乃神社」と呼ばれています。かつて、野洲川南流には「列系図橋」という橋が架かっており、その近くに位置していたことから「列系図の己爾乃神社」とも呼ばれています。
この神社の主祭神は伊邪那岐命と伊邪那美命であり、配祀神として天児屋根命と伊香津臣命が祀られています。元々、天児屋根命は若一王子、伊香津臣命は若一権現として主祭神とされていましたが、明治14年(1881年)9月22日に現在のように変更されました。
社伝によれば、この神社は天長6年(829年)に伊香厚武によって創建されたとされています。厚武は「大夫厚武」とも呼ばれ、伊香宿祢豊厚を祖とする伊香氏の末裔であり、伊香氏は中臣氏と同族でした。そのため、中臣氏の祖神である天児屋根命と伊香津臣命がこの神社に奉斎されたとされています。
己爾乃神社は度重なる野洲川の氾濫によって被害を受けました。その際、『己爾乃神社之縁由書』という書物のみが残され、神宝や古記録の多くが流失してしまいました。また、かつてこの神社の近くには若一王寺という神宮寺がありましたが、現在はその跡を継ぐ蓮光寺が残っています。
『近江輿地志略』には、神社付近に伝教大師(最澄)が作ったとされる仏像を安置する薬師堂が存在したことが記されています。この仏像はおそらく、本地仏として祀られていたものと考えられています。
後に、神祇管領の吉田家から正一位の宗源宣旨を受け、現在も「正一位若一大権現」と記された神鏡が伝わっています。この神社の旧社格は村社であり、地域の信仰を集めてきました。
己爾乃神社では毎年5月5日に例祭が行われています。この祭事は地域の重要な行事として、多くの参拝者を集めています。
境内には巳爾乃若宮が祀られており、神社の歴史と共に地域の信仰の中心となっています。
もう1つの己爾乃神社は、滋賀県守山市洲本町字中の前に鎮座しています。この神社は鎮座地にちなみ「中の前の己爾乃神社」や、かつての大字名に由来する「大曲の己爾乃神社」とも呼ばれています。
この神社の主祭神は、大己貴命、天津彦根命、素盞嗚命の三柱です。由緒によると、この神社は大宝3年(703年)に中臣為恵によって創祀されたと伝えられています。永禄年間(1558年~1570年)の兵乱により社殿が失われましたが、寛政3年(1791年)には復興しました。近くの玉林寺がかつての神宮寺であったとされています。
この己爾乃神社も村社としての旧社格を持ち、地域の信仰を集めています。例祭は毎年5月5日に行われ、地域の人々にとって大切な祭事となっています。
境内には稲荷神社、天満宮、大城神社が祀られており、これらの社も地域の信仰を集めています。
己爾乃神社には、室町時代の銅製経筒が伝えられています。この経筒は高さ25.3センチメートル、口径11.2センチメートルのもので、1974年(昭和49年)8月26日に守山市の文化財(工芸)に指定されました。この銅製経筒は、歴史的な価値が高く、神社の重要な文化財として保存されています。
己爾乃神社は、古くから滋賀県守山市洲本町に鎮座し、地域の信仰を集めてきた歴史ある神社です。2つの神社が同名で存在することから、河川信仰に由来する特別な背景があると考えられています。それぞれの神社は、異なる祭神を祀りながらも、共に地域の人々に支えられ、祭祀や文化財の保護が行われてきました。特に、銅製経筒などの貴重な文化財は、この神社の歴史と共に大切に保存され、守山市の文化