錦織寺は、滋賀県野洲市に位置する真宗木辺派の本山として知られる仏教寺院です。山号は遍照山、本尊は阿弥陀如来です。錦織寺の住職は、代々華族の男爵家であった木辺家が務めており、歴史的な重みと伝統を持つ寺院です。
錦織寺の創建は平安時代初期の天安2年(858年)に遡ります。この寺院は天台宗の慈覚大師円仁によって建立されました。当時、最澄が比叡山を開山する際に、霊木から作られた鞍馬寺の毘沙門天像と同じ木で彫られた像を祀るために、天安堂(毘沙門堂)が建てられました。
嘉禎元年(1235年)、浄土真宗の開祖である親鸞が関東からの帰洛の途上、錦織寺を訪れます。親鸞は美濃国の正蓮寺で毘沙門天の霊告を受け、この地に一尺八寸の阿弥陀如来坐像を安置しました。この時、親鸞は自身の著作『教行信証』のうち、「真仏土巻」と「化身土巻」をここで完成させ、これを記念して「満足の御影」と呼ばれる肖像画を描いたとされています。
さらに、親鸞に帰依した地頭石畠資長の支援により、寺院としての整備が進められました。このため、錦織寺は親鸞聖人の足跡を残す唯一の本山寺院としても知られています。
暦仁元年(1238年)7月6日の夜、天女と二人の童子が現れ、仏前に紫香の錦を織り供えました。この錦は四条天皇に献上され、天皇から「天神護法錦織之寺」という勅額を賜ります。これにより、寺号は遍照山天神護法院錦織寺となりました。
戦国時代の永禄12年(1569年)、錦織寺は浄土真宗と浄土宗の二宗兼学の寺院となります。しかし、天正元年(1573年)には門跡寺院として一四葉菊紋の使用が許され、格式高い寺院としての地位を確立しました。その後、元禄7年(1694年)に大火により全山が灰燼となりましたが、再建が進み、元禄16年(1703年)には御影堂が再建されました。
享保11年(1726年)には中祖第14代良慈が二宗兼学を廃止し、再び浄土真宗に戻ることとなります。そして享保19年(1734年)には、東山院の御所・御盃之間(現・東山御殿)を閑院宮を通じて拝領し、真宗錦織寺派が成立しました。
1876年(明治9年)には、錦織寺派は木辺派に改名されました。また、1881年(明治14年)には明治天皇より親鸞聖人に「見真大師」号が追贈され、錦織寺に勅額が掲げられました。さらに、1896年(明治29年)には西本願寺21世法主の次男木辺孝慈が錦織寺の住持となり、その後の発展に貢献しました。
錦織寺の境内には、歴史的な建物や文化財が数多く存在し、訪れる人々を魅了します。
天保2年(1831年)に再建された阿弥陀堂は、2000年(平成12年)に修理が施されました。本尊として安置されているのは、親鸞が常陸国霞ヶ浦の湖中から得たとされる阿弥陀如来坐像です。この像は、浄土真宗において珍しいものとされています。
御影堂は元禄16年(1703年)に再建されたもので、1983年(昭和58年)には修復が行われました。親鸞聖人の足跡を残す重要な建物であり、錦織寺の象徴的な存在です。
文久元年(1861年)に再建された天安堂には、最澄が比叡山を開く際に霊木で作られた毘沙門天王が安置されています。この毘沙門天像は鞍馬寺の毘沙門天王と同じ木から作られたと伝えられ、霊験あらたかです。
錦織寺へのアクセスは、JR琵琶湖線(東海道本線)野洲駅から野洲市コミュニティバスを利用し、「錦織寺前」停留所で下車後、徒歩2分で到着します。訪れる際には公共交通機関を利用するのが便利です。
錦織寺は、長い歴史と深い宗教的意義を持つ寺院であり、親鸞聖人や浄土真宗との強い結びつきを感じさせる場所です。訪れる人々に静寂と敬虔な気持ちをもたらし、また歴史的建物や文化財も見どころです。訪問者はその魅力に圧倒され、静かに歴史と向き合うひとときを過ごすことができるでしょう。